おいかわ・つねただ/1929(昭和4)年荏原郡大森(現:大田区大森)に所在していた東京高等工商学校(芝浦工業大学の前身)において、非常勤講師として教鞭をとっていた慶應義塾大学法学部教授の及川は、放校処分となった生徒たちの熱意により学校設立へと邁進した。1929(昭和4)年8月、私立武蔵高等工科学校学校設立申請書が東京府知事に提出された。
にしむら・ゆうさく/初代理事長。資産家であった西村は、慶應義塾の出身であった及川より、学校の設立資金を出資してもらうよう依頼を受け、承諾した。学校は財政面で危機に陥り、西村自身も健康を害するが、1955(昭和30)年に理事長が五島慶太に交代するまで私財を投じ学校の発展に尽力した。
てづか・たけまさ/実業家であった手塚は、西村と同様に慶應義塾の出身であった及川より、学校の設立資金を出資してもらうよう依頼を受け、承諾した。晩年期に迎えた最後の人材育成事業となった。手塚は実業家である一方、日本で初めての時刻表「汽車汽船旅行案内」を発行した“時刻表の父”である。
ごとう・けいた/長野県小県郡青木村に生まれる。1900(明治33)年に松本中学校を卒業後、経済的事情もあり18歳で母校の青木村尋常高等小学校の代用教員となり教壇に立つ。その後しばらく教員生活を送ったが、上級学校への受験勉強を続け、1902(明治35)年東京高等師範学校(現:筑波大学)に進学した。東京高等師範学校では、当時校長であった嘉納治五郎先生(講道館柔道創始者、柔道の父)より「なあに」の精神を学ぶ。卒業後、英語教員として再び教壇に戻るが、さらに上級学校進学への情熱を失わず、1906(明治39)年に東京帝国大学(現:東京大学)法科大学に入学した。学生時代に出会った富井政章男爵(東京帝大名誉教授)、加藤高明伯爵(イギリス大使)から信頼を得られ、精神的にも経済的にも支援を受ける。卒業後は、農商務省に入省。その後鉄道院に転じ、9年半の官吏時代を経て実業界へ転身する。1920(大正9)年、武蔵電気鉄道(現在の東京急行電鉄の営業エリアの沿線開発を行う)に着任。ここからは鉄道事業と沿線開発へ情熱を発揮させた。例えば、沿線には多くの大学を誘致(東京工業大学、慶應義塾大学、武蔵工業大学等)し、文教都市化した。あわせて、渋谷を中心としてターミナル駅には百貨店を併設し、沿線に暮らす人々へ快適な生活空間をつくった。武蔵電気鉄道を起点に多い時は100社以上の社長、役員に就任し、武蔵電気鉄道はいくつかの鉄道会社と合併を繰り返しながら、1942(昭和17)年、東京急行電鉄株式会社となり、一代で大東急コンツェルンを築いた。五島慶太にとって事業とは夢の延長のようなものであった。“事業の夢”は朝早く浮かび、すぐさま社へと送られた。夢を持ち、夢を追い求めることこそが原動力となり、多くの事業を成功させた。50歳を過ぎても夢は見続けた。そのひとつが教育である。その頃から、教育への情熱がさらに強まり、1939(昭和14)年に東横商業女学校(現:東京都市大学等々力中学校・高等学校)を開校させた。女子教育および技術教育への必要性を早くから説き、本学との関係もこの頃から次第に強まっていく。鉄道事業のかたわら、半生をかけて古写経をはじめとして貴重な美術品の蒐集(しゅうしゅう)を精力的におこなった。その美術品は世田谷区上野毛にある五島美術館で後世へと受け継がれている。終生、夢を追い求めた五島慶太は、桜をこよなく愛し、禅語の「随所に主となる」を教訓とし、自らも生涯、信念を貫き、“随所に主”となった77年の人生であった。